通常は15号室のみの見学だそうだけど、今回は宿の予約の時から文化財や建築に興味があるって要望していたから、その熱心さに応えて25号室と35号室も特別に案内してくれるんだって。
よかったね、ご主人💕
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さっそく、萬翆楼入口へ。15号室はのちほどで素通り。階段を上がって25号室から。
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温泉ふたり旅
「箱根湯本 萬翠楼 福住」(後編)
萬翆楼見学は9時から。15号室見学には我々の他にもう一組参加があるそうで、9時半に合流することになっている。息子と連れ立って1階ロビーに下りる。既に福住氏がフロントの前で待ってくれていた。
25号室 本間全景
旧別荘主屋と石蔵の二棟ともに登録文化財。敷地内に入るのは憚られたので道路からパシャリ。よく見えないけどしゃあない。
今日も暑い。部屋に戻って涼みながら帰り支度して、早々にチェックアウト。すでに玄関前に我が愛車「流星号」を出してくれていた。
洋風な窓格子と意表を突く鹿角
ちょっと駆け足の見学。続いて25号室の隣の階段を上って35号室へ。
35号室 本間全景
最初の見どころは入口の山桜の柱と戸。戸の縁(木枠)を柱の曲線(太さ)に合わせて削っているのがわかる。柱はできるだけ自然の姿を活かすため建築当初には木の皮も着けたままだったそう。
右の戸から入って次の間および本間を臨む。
和室が3部屋続くとやっぱり違う。本間までの距離が格式の高さを印象付ける。
まずは本間までズイと進む。上を見上げて48枚の天井画。24人の絵師が2枚ずつ描いたもの。すばらしいの一言。


電気がなっかった時代の建物。自然の明かりのみで見えるのが本来の意匠とのことで、福住氏が照明を消してくれた。
光と影が作り出す絶妙な景色。とっても静かな美しさだ。
繊細な組子細工。風流を演出する職人の技だ。
欄間は天井画を引き立てるため、あえて木目のみの落ち着いた意匠にしたんだとか。
本間の横の小部屋の欄間は廊下の明り取りにもなっている。
庭側の回廊に並ぶ窓。あの美しい外観を作り出している。
無粋を隠すために後付けされた棚だそう。
襖の取っ手 とっても凝っている
右:柱に付いているのはボタン式の呼び鈴
(電話がなかった時代の仕様)各部屋の所々にある
左:出入口の戸 ここから廊下に出る
中:廊下から本間側を見るとこんな感じ
右:写真の右側が2階への階段
右:写真の右側が2階への階段
最後に萬翆楼・金泉楼の建築に使われた材の一覧を見せていただいた。当時でも手に入れることが困難(貴重で高価)な部材ばかり。現在ではなおのことだ。
以上で、萬翆楼見学終了。ありがとうございました。
時刻は10時ちょっと過ぎたところ。チェックアウトは11時。その前に近くの「平賀敬美術館」を見てみたい。美術館の作品鑑賞もさることながら、建屋は以前福住旅館の別荘として使われていたもで、登録有形文化財にもなっている。
その旨をフロントで告げると、なんと美術館は画伯の奥さんがやっていたけど数年前に閉館したんだそう。今は別の人が使っているらしい。がっかり。外観だけなら見ることができるとのことで、散歩がてら向かう。息子は美術館の絵に興味があったようだが、付き合ってくれるそう。親孝行な息子だ。
今日も暑い。部屋に戻って涼みながら帰り支度して、早々にチェックアウト。すでに玄関前に我が愛車「流星号」を出してくれていた。
福住氏、仲居さん、フロントのおじさんがそろって見送ってくれた。
お世話になりました。
帰りに吉池旅館に寄って「旧岩崎邸」も見るつもりでいたが、暑さで気力が萎えて断念。
そのまま自宅に直帰。
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ミーハー的な見学だけでなく、たまには少し真面目に福住旅館(萬翆楼福住)が国の重要文化財に指定された背景を考察してみたい。
と偉そうに言っても自分では難しいので、まずは文化庁のデータベースから重要文化財の指定基準と解説を少し抜粋させていただく。
適用した基準は「意匠的に優秀なもの」、「 歴史的価値の高いもの」の二つ。
解説では「北の萬翆楼、南の金泉楼の構造はともに一・二階を木骨石造とし,三階は漆喰塗仕上げの土蔵造で,寄棟造,桟瓦葺である。内部意匠は各室とも想を凝らしており,奇巧性に富んだ意匠や仕掛けが随所に見られる。
二棟間の中央に玄関を設ける建築構成や,三階をひとまわり小さく造る階層構成に特徴がある。これらは,ともに明治初期の木骨石造建築の技法を伝える遺構として,また数少ない擬洋風建築として重要である。」と記されている。 これを読んだ限り、少なくとも建築的な視点における意匠と歴史的価値が高いことは伺える。
そこに、なぜに石造、土蔵といった建築である必要があったかという視点も加えれば、さらにこの宿が重要文化財に指定された理由が理解しやすい。
見学の折に、宿のご主人が「確かな根拠はないが」という前置きのうえで説明したことを以下にまとめる。
福住氏曰く、
「福住旅館は創業来、数度にわたり火災被害(建て替え)を受けてきた。
それを教訓に防火対策の必要性がかねてよりあった。
加えて、その筋から政府要人が逗留できる堅牢堅固な宿を望む声があった。
金泉楼と萬翆楼はそうした背景の下に造られたもの。
当時、東京箱根間は歩いて二日かかる。とすれば逗留は二三日程度の短期とは考えにくい。
また政府要人の長期逗留ともなれば、随行者(家族含む)なども相当数が宿泊しなければならなかっただろう。
ゆえに、要人一行に萬翆楼、金泉楼の一棟貸しを基本にしていたのではないかと思う。
当然、警備の面から考えれば一般客の受入れはしなかっただろう。」
以上のような旨の話をされていた。
確かに間取りも部屋の配置も随行者が一緒に滞在できるように配慮されているように見える。宿全体の規模も大き過ぎず、小さ過ぎずだ。
また、当時の政府要人ともなれば、いつ族に命を狙われてもおかしくなさそう。2階や3階の各部屋には回廊があり、外の監視もでき、警護しやすいだろう。
そもそも立地的にも背面が早川であり、それ以外を石造りで堅牢にすれば、族に襲われるリスクはかなりなくなる。
一緒に一般客を泊めてたら警護が成り立たない。ご主人のおっしゃる通りだ。
政府要人用に外は堅牢とし、文人墨客にも相応しく内外ともに意匠を凝らす。萬翆楼と金泉楼の造りは文明開化を巧妙に取り入れながら、それを追求した結果ではないかと愚考する。
実際、この石造りの宿には伊藤博文、木戸孝允(桂小五郎)、山内容堂、井上馨、松方正義、三条実美、山県有朋といった明治黎明期の政府要人が数多く逗留している。
文人墨客が逗留した宿は数あれど、これほど多くの歴史上の要人と関わりのある宿が他にあるだろうか。いかにこの宿を信頼して逗留できたかが想像できる。また、その感謝のされ様は多くの書画などを贈られていることから推察できる。
こうしたことを考えると、建築の意匠に加え、宿の果たしてきた使命・役割にも、国の重要文化財に指定されるに十分な歴史的価値があるのだと思う。
自分の言わんとすることを記事にしているサイトがあったので参考にリンクを張っておく。
ちなみに、この記事の結びにはこう記されている。
「各地の旅館の中にはもっと古い建物に泊まれる所や、豪華な旅館もあります。しかし、多くの歴史上の人物との関わりを持つ、存在自体が文化財とも言える旅館は日本の中でも稀有な存在だと思います。」以上、引用。
既に萬翆楼は保存のため宿泊できなくなっている。金泉楼も近い将来には泊まれなくなるかもしれない。
重要文化財は保存が第一。改修は強く制限される。これ以上傷まないよう宿泊を制限するのはやむを得ないだろう。
改修制限の緩やかな登録文化財(利用しつつ保存)とは大きく異なる点だ。
泊まれなくなる前に、できるならもう一度泊まってみたいと思う。
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👀画像引用:タイトル画像および25・35号室の本間全景の画像はHPより
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